韓国ドラマ・太王四神記(太王四神紀・태왕사신기)は第11話「天の裁き」が放送されまして、次回は2月25日の月曜日夜10時から第12話「戦いの準備」が放送される予定です。NHK海外ドラマホームページの「太王四神記(태왕사신기)-www3.nhk.or.jp/kaigai/taioshijinki/yotei/index.html」でドラマのあらすじが紹介されていますが、そこでちょっと気になったワードが「百済-韓国語では백제(ペクチェ)」。百済は日本でもおなじみな歴史用語ですが、正直なところ学校の歴史の勉強だけでは情報が足りないんですよね。歴史好きの方でしたら「古事記」や「日本書紀」、江上波夫さんの「騎馬民族征服王朝説」などを読んだ方もいらっしゃるかとも思います。個人的に歴史物が好きなものですから、この辺りの事情は韓国ではどうなんだろうかと、「천초보고 銅鏡의 비밀 천황은 百濟人인가」という本を韓国語で読んでことがあります。歴史的には深い係わり合いがあることは確かなんですよね、百済と日本(日本というよりも大和といったほうがいいかもしれません)。百済という国は後に高句麗(고구려-コグリョ ※ドラマですと「カウリ」になるんでしょうか、意味は同じですよ。漢字の表記の仕方は、高句麗, 高麗, 句麗, 九礼, 孤竹, 九離などなどさまざま・・・)ともども滅亡の憂き目にあいますが、たくさん日本列島に亡命してますものね。そのなかでも有名な人物は、鬼室集斯。鬼室集斯とは・・・
鬼室集斯は、奈良時代の白村江(はくすきのえ)の敗戦後に渡来してきた百済人です。蒲生野へ移り住んだ700人以上の百済系渡来人の首長の1人で、鬼室王ともいいました。大和朝廷に仕えて天智天皇(てんぢてんのう)の信任を得て、学識頭(ふみのつかさのかみ)として日本の官史養成に務めました。古代史料にも、数多く彼の記事が出ています。晩年、職を辞してこの地で没したといいます。(滋賀県観光情報-www.biwako-visitors.jpより)
お墓が滋賀県の日野町にあるそうですよ。ちなみに日野町の観光情報ページはこちら-www.biwa.ne.jp/~hino-to/hino-to.html。
さて今回は百済について、韓国語での情報を集めてみようかと思います。日本では得られない貴重な情報があるでしょうか・・・。
まずは韓国のポータルサイトNAVERの백과사전(百科事典-dic.naver.com)を使って「百済」を調べてみます。「백제의 공예품」の項目や「백제의 관모」などは日本でもおなじみの出土品ですね・・・(実際目で見ていただければ、素人目にも納得しますよ・・・)。それでは、第12話「戦いの準備」の戦う相手、「百済-(백제)」について調べてみます。
Googleで「고구려 백제」と検索ボックスに入力すると、「古記로 보는 韓國古代史-home.megapass.co.kr」というサイトがありました。左側のメニューのところに「백제」とありましたので、それをクリック!! 「第15章百濟」と表示されます。7番の「百濟分國과 北魏.高句麗間의 戰爭狀況」の記事の抜粋になりますが、少々引用させていただきます。原文記事にexciteで翻訳したものにちょっと手を加えて載せておきます。
原文
고구려(高句麗)는 A.D 416년경에 광개토왕(廣開土王) 때 백제(百濟)로부터 빼앗은 중국동해안지방(中國東海岸地方)을 도로 백제(百濟)에 빼앗긴 후 A.D 425년에 북위(北魏)에 사신(使臣)을 보내고 그 때부터 북위(北魏)와 동맹세력(同盟勢力)이 되었다.
訳文
高句麗(高句麗)は、A.D 416年頃広開土王の時代に百済から奪った中国東海岸地方を百済(百済)に奪い返された。その後A.D 425年に北魏に使臣を送り、その時から北魏と同盟勢力(同盟勢力)になった。
※この当時の中国は南北朝時代で、北朝が北魏(386年 - 534年)、東魏(534年 - 550年)、西魏(535年 - 556年)、北周(556年 - 581年)、北斉(550年 - 577年)、南朝が宋(420年 - 479年)、斉(479年 - 502年)、梁(502年 - 557年)、陳(558年 - 589年)になります(Wikipediaより)。
原文
A.D 458년에 백제(百濟) 개로왕(蓋鹵王)은 송(宋) 나라에 파견(派遣)된 여기(餘紀), 여곤(餘昆) 등 11명의 백제장군(百濟將軍)들을 재임명(再任命)하고, 이를 송(宋) 나라에 통보하여 백제왕(百濟王)이 임명(任命)한 직위(職位) 그대로 송(宋) 나라에서도 다시 임명(任命)하게 하였다. 이때 재임명(再任命)된 백제(百濟)장군들의 직위(職位)는 관군장군(冠軍將軍), 정로장군(征虜將軍), 보국장군(輔國將軍), 용양장군(龍驤將軍), 영삭장군(寧朔將軍), 건무장군(建武將軍) 등이다. 그리고 이때 재임명(再任命)된 백제장군(百濟將軍)들의 직위(職位) 중에 정로장군(征虜將軍)이 나오는 것으로 보아, 송(宋)과 백제(百濟) 연합군(聯合軍)의 주임무(主任務)는 북위(北魏) 정벌(征伐)을 담당하는 것이고, 백제(百濟) 장군(將軍)들을 송(宋) 장군(將軍)으로 다시 임명(任命)한 것은 연합군(聯合軍)에 편성된 백제(百濟) 장군(將軍)들이 송(宋) 나라 군사를 지휘할 수 있도록 백제(百濟)의 직위(職位)대로 송(宋) 장군(將軍)으로 겸직(兼職) 임명(任命)한 것이다.
訳文
A.D 458年に百済の蓋鹵王は宋に派遣していた余紀、余昆など 11人の百済の将軍を再任命しこのことを宋に報告。百済王が任命した職位はそのまま宋での職位となった。 この時任命された百済の将軍たちの職位は、冠軍将軍、征虜将軍、輔国将軍、龍驤将軍、寧朔将軍、建武将軍などだ。それから、この時任命された百済の将軍の職位の中に征虜将軍が出てくるのを見ると、宋と百済連合軍の主な任務は北魏征伐で、百済の将軍を宋の将軍に再任命したのは、連合軍に編成された百済の将軍が宋の軍事を指揮することができるように、百済の職位のまま宋の将軍に任命し兼職させたのだ。
※このページの中央に「A.D 465년경 요서와 중국동해안방면 백제분국-A.D 465年頃の遼西と中国東海岸方面の百済分国」と書いた下に地図が載っていますが、これを見ると百済は朝鮮半島が本国として、その他にも領土があったんですね。日本ではなかなか聞けない特ダネ情報!!
原文
백제(百濟)는 요서분국(遼西分國)이 고구려(高句麗) 등에게 포위(包圍)됨으로써 국력이 약해졌다. 고구려(高句麗)는 그 기회를 틈타서 A.D 475년에 백제(百濟)의 수도(首道) 한성(漢城)을 점령하였다.
訳文
百済は遼西分国が高句麗などに包囲されたことで国力が弱まった。高句麗はその機会に乗じてA.D 475年に百済の首都・漢城を占領した。
この次がわたしたちにも関連してきますよ。え~、ちょっとビックリする内容!!
原文
그 후 A.D 477년에 백제(百濟)는 고구려(高句麗) 등의 포위(包圍)를 뚫고 백제본국(百濟本國)으로 온 요서분국(遼西分國) 군사의 도움으로 국력(國力)을 회복하여 A.D 487년에 대마도(對馬島)를 평정하고, A.D 488년에 일본열도(日本列島)를 다시 평정하여 인현조(仁賢朝)를 세우고 일본열도를 다시 백제(百濟)의 후국(侯國)으로 만들었다.
訳文
その後A.D 477年に百済は高句麗などの包囲をくぐって百済本国に来た遼西分国兵の助けで国力)を回復し、A.D 487年に対馬島を平定。A.D 488年には日本列島も平定して仁賢朝を立て、日本列島も百済の侯国とした。
※侯国というのは王国のなかにあるひとつの国ですよね。たとえるなら、江戸時代の徳川が王で各諸藩の大名が侯といった感じでイメージするとわかり易いかもしれませんね。百済が日本に分国を立てたというのは、今の都道府県全部の範囲に相当する領土でということではなくて、大阪や奈良県の辺りにということだと思いますけど、仁賢朝の仁賢(にんけん)も調べてみましょう。
仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年(449年) - 仁賢天皇11年8月8日(498年9月9日))は、第24代の天皇(在位:仁賢天皇元年(488年)1月5日 - 同11年(498年)8月8日)。億計天皇(おけのすめらみこと)・大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。(Wikipediaより)
字が嶋(しま)というところで思い出したのは、百済の王様でも「しま」と言っている人がいたんですよね。その人の名は「武寧王(ぶねいおう)」。
武寧王(ぶねいおう、462年 - 523年)は百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆(余は百済王の姓)、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。(Wikipediaより)
「仁賢天皇は武寧王である」とのタイトルで本を出してみたくなるほど魅力的な仮説ですが、ここは細かく検証してからということで・・・。
上の文章に登場する「昆伎」なる人物も日本に関係があるんですよね。NAVERの백과사전で調べてみます。
곤지 [昆支, ?~477]
문주왕(文周王)의 아우. 동성왕(東城王), 무령왕(武寧王)의 아버지. 458년(개로왕 4) 개로왕의 추천으로 송나라로부터 정로장군 좌현왕(征虜將軍左賢王)에 봉해졌다. 461년 일본에 건너가 약 15년간 머물면서 간사이[關西]지방 가와치[河內] 등을 개척하다가, 475년 개로왕이 고구려군의 공격을 받아 죽고 문주왕이 도읍을 한성에서 웅진(熊津)으로 천도하는 국난을 당하자, 급히 귀국하여 477년 4월 내신좌평(內臣左平)에 취임하였으나, 그해 7월에 죽었다.
この記事-「461년 일본에 건너가 약 15년간 머물면서 간사이[關西]지방 가와치[河內] 등을 개척하다가-461年日本に渡り、約15年間の滞在中に関西地方の河内などを開拓し・・・」。461年ごろの日本の天皇は「雄略天皇」、その次が「清寧天皇」、その次が「顕宗天皇」、そして「仁賢天皇」ということになりますが、これはいったいどういうことなんだろうと勝手に興奮していますが・・・。
原文
인 현천황(仁賢天皇)을 세운 백제(百濟)는 그 해 백제군(百濟軍)과 왜(倭) 군사(軍士)를 주력(主力)을 요서분국(遼西分國)과 중국동해안분국(中國東海岸分國)으로 이동시켰다. 왜(倭) 군사(軍士)와 백제군(百濟軍)의 주력(主力)이 요서분국(遼西分國)과 중국동해안분국(中國東海岸分國)으로 이동(移動)하자 이에 당황(唐慌)한 고구려(高句麗)는 일년에 한번씩 보내던 북위(北魏) 사신(使臣)을 이 해부터 일년에 3번 보내며 동맹관계(東盟關係)를 강화(强化)하였다.
訳文
仁賢天皇を立てた百済は、その年百済軍と倭兵の主力を遼西分国と中国東海岸の分国に移動させた。倭兵と百済軍の主力が遼西分国と中国東海岸の分国に移動すると、あわてた高句麗は1年1度北魏へ送っていた使臣を、これ以降1年に3回とし同盟関係を強化した。
太王四神記(太王四神記(태왕사신기))は高句麗の広開土王の1代記を扱った歴史ファンタジードラマですが、東アジア全体で歴史を頭にインプットしてこのドラマを見てみるのも、また違った見方ができておもしろいかもしれませんね。それに、わたしたち日本人もまんざら無関係ではなさそうですよーと思いながら見るのもまたおもしろいかなあ~なんて思っていますけど・・・。