中国語の上級目指して、ちょっと難しいテキストをピンインつけて読んでみる

 語学の上級レベルとは? 検定試験ですと1級ということになると思いますが、中検(中国語検定)における1級の認定基準では、「高いレベルで中国語を駆使しうる能力の保証 高度な読解力・表現力を有し,複雑な中国語及び日本語(例えば挨拶・講演・会議・会談等)の翻訳・通訳ができること」となっています。ネイティブの人でもこれを出来る人は少ないんじゃないかと思いますけど(^^)。わたしたちが話す日本語の上級レベルとは? 上の定義に照らし合わせると自分は上級じゃないぞ!!と思ってしまいますが、朝日新聞が読めて岩波文庫が理解できればとりあえず良しとしておきましょう。

 「高度な読解力・表現力」を身につけるには、やはり「論理」が必要だと思うんですよね。この論理を養うには本を読むのが一番ですが、その中でも哲学書が筆頭にくると思いますが、中国語でこの「論理」が学べる本が読みたいというのが最近の中国語学習における課題でありまして・・・。さっそくBaidu百科(baike.baidu.com)で調べてみます-最近日本でも話題になりました、あの「百度」です。ピンインは「どんと来い、中国語(www.gakira.com)」のサイトを利用させていただきました。

 「百度百科」の「哲学」の項目にある「历史」を見てみると・・・

 “哲”一词在中国起源很早,历史久远。如“孔门十哲”,“古圣先哲”等词,“哲”或“哲人”,专指那些善于思辨,学问精深者,即西方近世“哲学家”,“思想家”之谓。
 “zhé”yī cí zài zhōngguó qǐyuán hěn zǎo,lìshǐ jiǔyuǎn。rú“kǒngménshízhé”,“gǔshèngxiānzhé”děng cí,“zhé”huò“zhérén”,zhuān zhǐ nàxiē shàn yú sībiàn,xuéwèn jīngshēn zhě,jí xīfāng jìnshì“zhéxuéjiā”,“sīxiǎngjiā”zhī wèi。

 一般认为中国哲学起源东周时期,以孔子的儒家、老子的道家、墨子的墨家及晚期的法家为代表。而实际上在之前的《易经》当中,已经开始讨论哲学问题。
 yībān rènwéi zhōngguó zhéxué qǐyuán dōngzhōu shíqī,yǐ kǒngzǐ de rújiā、lǎozǐ de dàojiā、mòzǐ de mòjiā jí wǎnqī de fǎjiā wéi dàibiǎo。ér shíjìshàng zài zhīqián de《yìjīng》dāngzhōng,yǐjīng kāishǐ tǎolùn zhéxué wèntí。

 孔子に老子というとどうしても哲学というよりも道徳、思想といった感じがしてしまうんですよね。易经は占いといった感じですか。天や道といった概念から個人が抜け出せないというのか、なんとなくもやもやしてしまいますし、占いですと運命論的で・・・。

 哲学という用語はもともと中国になかったんでしょうか。

 19世纪70年代,日本最早的西方哲学传播者西周借用古汉语译作“哲学”,1896年前后康有为等将日本的译称介绍到中国,后渐渐通行。
 19shìjì 70niándài,rìběn zuìzǎo de xīfāng zhéxué chuánbōzhě xīzhōu jièyòng gǔhànyǔ yìzuò“zhéxué”,1896nián qiánhòu kāngyǒuwéi děng jiāng rìběn de yìchēng jièshào dào zhōngguó,hòu jiànjiàn tōngxíng。

 ・・・ということらしいですね。西周(にしあまね)をWikipediaで調べてみたら、獨協大学と深い係わり合いがあったんですね。う~ん、トレビア。獨協大学の外国語学部はそれで難しいのかと勝手に想像してしまいました・・・。

 さらに引用を続けます。

 「主要的哲学家」というところを見ると、「西方」に赫拉克利特(ヘラクレイトス)・毕达哥拉斯(ピタゴラス)・苏格拉底(ソクラテス)・柏拉图(プラトン)・亚里士多德(アリストテレス)・斯宾诺莎(スピノザ)・莱布尼茨(ライプニッツ)・卢梭(ルソー)・康德(カント)・黑格尔(ヘーゲル)・马克思(マルクス)・尼采(ニーチェ)などなどたくさんの哲学者が並んだその下に「东方(東方)」とあるんですが、誰もいませ~ん。孔子も老子も哲学者ではないということなんでしょうか、非常に残念!!

 これはこういうものだと価値を限定されるんじゃなくて、どうしてそうなのかを自分なりに考えて結論を出したい。「それでも地球は回っている」んだと・・・(これは独り言です)

 「哲学的价值」というところに、哲学の定義らしきものが載っていましたのでこれまた引用させていただきすと同時に中国語の勉強もしちゃいましょう。

 哲学之应当学习并不在于它能对于所提出的问题提供任何确定的答案,而是在于这些问题本身;原因是,这些问题可以扩充我们对于一切可能事物的概念,丰富我们心灵方面的想象力,并且减低教条式的自信,这些都可能禁锢心灵的思考作用。
 zhéxué zhī yīngdāng xuéxí bìng bùzài yú tā néng duìyú suǒ tíchū de wèntí tígōng rènhé quèdìng de dáàn,ér shì zàiyú zhèxiē wèntí běnshēn;yuányīn shì,zhèxiē wèntí kěyǐ kuòchōng wǒmen duìyú yīqiè kěnéng shìwù de gàiniàn,fēngfù wǒmen xīnlíng fāngmiàn de xiǎngxiànglì,bìngqiě jiǎndī jiàotiáoshì de zìxìn,zhèxiē dōu kěnéng jìngù xīnlíng de sīkǎo zuòyòng。

 哲学也可以说是理性对于信仰的研究,同时还有理性对人与自然规律的总结。
 zhéxué yě kěyǐ shuō shì lǐxìng duìyú xìnyǎng de yánjiū,tóngshí háiyǒu lǐxìng duì rén yǔ zìrán guīlǜ de zǒngjié。

 哲学是对世界的关于终极意义的解释,它在解释中使我们了解世界,使世界在我们的意识中合理化,从而为我们提供心灵的慰藉。
 zhéxué shìduì shìjiè de guānyú zhōngjí yìyì de jiěshì,tā zài jiěshì zhōng shǐ wǒmen liǎojiě shìjiè,shǐ shìjiè zài wǒmen de yìshí zhōng hélǐhuà,cóngér wéi wǒmen tígōng xīnlíng de wèijiè。

 哲学还是对人的自我一种定位的工具。
 zhéxué háishì duì rén de zìwǒ yīzhǒng dìngwèi de gōngjù。

 やっと見つかった、そうです「自我」なんですね。中国語の中に「自我」が存在するかどうか。あるのかないのか、これから中国語を勉強していくと分かってくるのかもしれません・・・。ちなみに哲学っぽい文言を中国語で読んでもなぜか哲学っぽいですね、これは英語でもフランス語でも感じた印象ですけど、もちろん日本語もですけどね(^^)。

 哲学それに科学的な方法論を言葉で教えてもらったと思うのは、個人的にはフランスの哲学者デカルト(Descartes-笛卡儿)。

 デカルトの方法序説(中国では「方法论」、原題-Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences-理性を正しく導き、もろもろの科学における真理を探究するための方法序説・・・原題の邦訳はWikipediaより)を読んだときは、こういった下地があったから西洋から科学が起こったんだなあと思いました。

 またまた「百度百科」からの引用になります。

 最著名的思想就是"我思故我在"。意思是:“当我怀疑一切事物的存在时,我却不用怀疑我本身的思想,因为此时我唯一可以确定的事就是我自己思想的存在”。
 zuì zhùmíng de sīxiǎng jiùshì"wǒsī gù wǒzài"。yìsī shì:“ dāng wǒ huáiyí yīqiè shìwù de cúnzài shí,wǒ què bùyòng huáiyí wǒ běnshēn de sīxiǎng,yīnwéi cǐshí wǒ wéiyī kěyǐ quèdìng de shì jiùshì wǒ zìjǐ sīxiǎng de cúnzài”。

 あの有名なフレーズ-日本語ですと「我思う、故に我あり」、中国語は「我思故我在」、本場フランス語では「Je pense, donc je suis」。

 ちなみに、方法序説(方法论-Discours de la méthode)のフランス語の原文は「ABU : la Bibliothèque Universelle(abu.cnam.fr)」-「auteurs」-「Descartes (René)」-「Discours de la méthode」で読めますよ。

 本日は非常に頭が疲れました。これが上級レベルなのだ、頑張らないと・・・。