韓国ドラマ「太王四神記」の舞台「高句麗」は日本にも関係があるんです!!

 韓国ドラマ・太王四神記(태왕사신기)の太王とは日本人にもおなじみの広開土王(第19代高句麗王-광개토왕/廣開土王)、名前はタムドク(談德-담덕)。その高句麗(고구려)も第28代宝蔵王(보장왕)の時代に滅びてしまいますが、その後大祚栄(대조영)によって高句麗人たちによる渤海国が成立しますが・・・で、ちょっと一呼吸。国を建国したのは大祚栄となっていますが、この方のプロフィールをちょっと見てみましょう。Wikipediaで調べてみます。

 大祚栄(だい そえい、生年不詳 - 719年)は渤海の初代王(在位 : 698年 - 719年)であり、諡号は高王。唐から与えられた称号は渤海郡王であり、忽汗州都督府都督の官職を受けた。

 大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』では、渤海靺鞨の大祚榮、本は高麗の別種なり(「渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也」)として高句麗から派生した種族として位置付けているが、『新唐書』では、本来高句麗に付いていた粟末靺鞨の者で、姓は大氏である(「渤海,本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏」)とし、高句麗との種族的関係を曖昧にした記載がなされている。

 「高麗の別種」という表現は、これもまた『旧唐書』に載っている「日本国は倭の別種」という表現。倭が日本になったのではなく日本はもともと日本ということなんでしょうが、「高麗の別種」というのも同じ意味合いですよね。渤海国は高句麗の王族が再起をかけて興した国ではない、すると王族たちはどこへ消えたのか・・・。

 ここからが本題ですが、その王族たちがもしかして日本にやって来ているかも? 2007年10月13日付のブログ「韓国ドラマ「太王四神記」を見る前にちょっと歴史のお勉強」でも紹介しましたが、ちょっと読んでいただいてから話を進めたいと思います。

 「高句麗と聞くと聞くとなぜか疼いてしまいます。高校時代を過ごした松本市に須々木水神社(すすきがわじんじゃ)というところがあって、渡来人(高句麗系)の卦婁(ケル)氏を祭っているともいわれており、近くを薄川(すすきがわ)が流れています。今回このドラマのことを耳にして、高句麗といえば・・・と思ってしまったわけでして・・・。

 ところでその卦婁(ケル)さんとはいったい何者なんでしょうか。日本後紀にこんな記事が載っています。訓読しながら少々引用してみます。

 十二月甲戌、又信濃国の人外位六位下卦婁眞老・後部黒足・前部黒麻呂・・・高麗家継・高麗継楯・・・等言す。己等の先は高麗人なり。小治田・飛鳥の二朝廷の時節に、帰化来朝す。それより以還、累世平民にして、未だ本号を改めず。伏して望むらくは、・・・大姓に改めんことをと。眞老等に姓を須々岐、黒足等に姓を豊岡、黒麻呂に姓を村上、・・・家継等に姓を御井、・・・と賜ふ。

 ではさっそく韓国のサイトNaverの백과사전で卦婁(ケル)さんを調べてみます。韓国語の表記ですと계루부(ケルブ)-桂婁部になります。

 계루부(桂婁部)

 고구려 5부(五部) 중의 하나로 왕족을 배출하였다.

 高句麗の5部のうちのひとつで王族を輩出した。

 고구려의 정치적 기반으로는 소노부(消奴部)·계루부(桂婁部)·절노부(絶奴部)·순노부(順奴部)·관노부(灌奴部)의 5부족 연맹의 조직을 들 수 있다.

 高句麗の政治的基盤には、消奴部・桂婁部・絶奴部・順奴部・灌奴部の5部族連盟の組織をあげることができる。

 내부(內部)·황부(黃部)라고도 한다. 고구려 5부의 중심을 이루었다. 처음에는 소노부(消奴部)에서 왕위를 차지하다가 AD 53년 즉위한 제6대 태조왕(太祖王) 때부터 왕위교체가 이루어졌다.

內部・黃部とも言う。高句麗5部の中核を担った。最初消奴部から王位を立てていたが、紀元前53年即位した第6代太祖王の時から王位が交代するようになった。

 王族だったんですね。でもなんで松本なんかにいるんだろう・・・」

卦婁桂婁部」で検索したら次のような文面が出てきましたよ・・・。

 괘루(卦婁)는 고구려 5부(部)의 하나인 계루부(桂婁部)의 다른 표기로 볼 수도 있으나 아직 단정하기는 어려우며,개절(盖切)은 관직명의 일종으로 추정되고 있다.(empas백과사전より)

 ※卦婁は高句麗 5部のひとつ桂婁部の別の表記と見ることもできるがまだ断定することは難しく、盖切は官職人の一種と推定されている。

 도쿄에서 자동차로 한 시간쯤 내려가면 닿는 야마나시(山梨)현의 80%가 나카고마군(中巨摩郡), 가미(上)고마군, 시모(下)고마군으로 되어 있는데, 여기서의 ‘거마(巨摩)’는 바로 고마(高麗)가 변한 것임을 일본 고문헌을 통해 확인했다. 야마나시현 옆의 나가노(長野)현은 야마나시와 더불어 일본에서 손꼽히는 산악지방이다. 평야가 좁고 농지가 드문 곳인데도 반도 사람들이 스며들었다. 거기에 고구려의 도래인 케루(卦婁)씨가 정착해 스즈키(須須岐·鈴木)로 성을 바꿨다.

 ※東京から車で1時間ほど行って着いた先は山梨県。山梨県の80%が中巨摩郡、上巨摩郡、下巨摩郡で占められているが、ここの「巨摩」はまさに高麗に由来 することを日本の古文献を通じて確認した。山梨県に隣接する長野県は山梨県ともども日本でも有数の山岳地帯だ。平野が狭く農地の少ない場所であるが、半島 人が入植したのだ。そこに高句麗からの渡来人・卦婁氏が定着し、スズキ(須須岐・鈴木)と姓を変えた。

 스즈키는 일본 최대 인구의 성씨다. 괘루(卦婁) 상부(上部) 하부(下部) 후부(後部) 같은 고구려 왕족의 성을 갖고 있던 도래인들이 일본 조정에 성을 바꿔 달라고 청원해 스즈키 같은 성을 받았다는 기록도 찾아냈다. 최대의 성씨는 역시 반도계 혈통이기에 그렇게 많아진 것이다.(donga.comより)

 ※日本で最も多い姓のひとつが鈴木だ。卦婁・上部・下部・後部のような高句麗王族の姓を持つ渡来人たちが日本の朝廷に姓を変えてほしいと請願し、須須岐という姓を受けたという記録も見つけた。 最大の氏姓はやはり半島系の血統ということで、それほど多くなったのだ。

 「小治田・飛鳥の二朝廷の時節に、帰化来朝す」とありますが、小治田は推古天皇(592~628)、飛鳥は舒明・皇極・孝明(645年大化の改新)・斉明・天智・天武(673~686)と天皇が続く時代。高句麗は668年に滅亡してますから、彼ら高句麗の王族または官吏の人たちは政治的な要素が強いかもしれませんね。そこは多くを語ってくれていませんけど・・・。

 卦婁さんを祭った須々木水神社は延喜式内社で・・・

 延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた全国の神社の一覧である。延喜式神名帳に記載された神社を、「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。

 式内社は、延喜式がまとめられた10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定には政治色が強く反映されている。(Wikipediaより)

 ・・・つまり、時の政権にとってはとても大事な神社。ちょっと訳あり、格あり。平民として暮らしてきたとありますが、外位六位下という位をもっているくらいなら、ただの平民ではないはず。天武天皇の時代の位階を見ると、外位は「地方の有力者や外国人に与えられる官位(Wikipediaより)」とありましたから、う~んやはり王族クラスなんでしょうか、多くを語ってくれていませんのでなんとも言えないのですけど・・・。

 韓国の歴史を勉強をしていると、なぜか日本の歴史にも触れないではおけません。韓国語と日本語はどうりで似ているなあとは思っていましたが、こんなところにも繋がりがあるのかなあ~と、あくまでも直感ですけどね・・・。でもこういうタイトルで本が書けそうですね・・・

 「高句麗の消えた王族たち-広開土王の末裔を捜し求めて」・・・いま明かされる日本古代史の謎、闇の封印を解き放つ」現代歴史文庫